映画監督 諏訪敦彦

私は一体、どのような映画を見たのだろう? 私が見た映像や声や言葉は、なぜここに集められたのだろう? 見終わって、私の心は宙をさまよう。

人々がカメラの前で話していた。この映画に映っている彼ら彼女らは、ただ自分の生活を自分の場所で生きているように見える。そんな彼らが「あなたの言葉は、借り物ではない、生きた言葉だ」と突然言われても困るだろう。「私が、何か特別な、本当の言葉を話してるなんてはずはない…」

でも、彼らがこの映画に選ばれた。なぜ? 私があなたを選んだのだから、それでいいのだ。とカメラの背後から誰かが言っている。それが杉本さんだ。

彼ら彼女らだけが、谷川さんの詩に呼応する言葉を話す、特権的な人ではないだろう。それは相馬や、あいりん地区や、諫早湾などの特別な場所に生きる人であったりもする。しかし、彼ら彼女らにその特別な物語を代表させるような姑息さとは杉本さんは無縁だ。杉本さんが漂泊の旅(それは映画を捜す旅だったのかもしれぬ)で出会った人々、たまたま、あるいは必然的に、出会ってしまったこと、それが私の映画=生であるから、彼ら彼女らの言葉を取り上げる。何の関係もない彼ら彼女らをつなぐ一般的な理由や物語などどこにもない。あるとすれば、それはこの私、つまり杉本さんという人なのである。

ドキュメンタリーと呼ばれる映画は奇妙な映画である。カメラはさまざまな人々の話に耳を傾け、その表情を捉えるが、それを聞き、見つめ、愛そうとしている最も重要な人の顔にカメラを切り返そうとはしない。映画を貫く重要な存在であるのに、その人は写らない。しかし、言葉とは常に「誰かに」向けられた賭けのようなものであるから、その言葉の豊かさや、嘘や、切実さは、切り返されるはずの人、それを受け止めている人が、どのようにそこにいるのかによるはずである。言葉がぽつんとどこかにあるのではなく、それが誰かとの間に差し挟まれることで言葉となり、誰かに発してしまった言葉が、その人の内面と言われるものをつくり出すのであろう。私はそう考える。

これらの言葉の中に、谷川さんの詩がとけ込んでいるのかどうか、答えはない。谷川さんの詩作の現場を撮るという不可能なミッションは、杉本さんを映画そのものに向かわせたのかもしれない。カメラを構える私に向けて発せられた言葉を遍歴しながら、杉本さんは、映画によって自らの詩の現場を撮ったのだと思う。

その詩は、誰にとっても分かりやすい物語ではなく、彼ら彼女らは、誰もが納得するような資格を持って映画に登場したりはしない。ぶっきらぼうに投げ出され、「〜は、〜である。なぜなら〜だから」と言って人を否応無く説得するような、支配的な映像言語でつながれてはいない。ひとりひとりの生活と言葉が、土に転がったひとつひとつの石のようにごろんとそこにあるだけである。杉本さんはただその石を地面に並べてゆく。意味によって安心したい人は、石を置くその映画作家に、「何が言いたいの?」と問うであろう。

つながないこと。ただ示すこと。寄り添い、肯定し、見つめること。自分がそこにいることを隠さないで。そしてそれだけが、いつも意味という権力に回収されやすい性質を持っている映画において、詩的であることの、あるいは詩と拮抗できる唯一の道なのである、ということを厳しく、ナイーブで、優しい杉本さんは、酒とカメラを手にしながら本能的に察知するのである。

つながないこと。ただ示すこと。寄り添い、肯定し、見つめること。自分がそこにいることを隠さないで。そしてそれだけが、いつも意味という権力に回収されやすい性質を持っている映画において、詩的であることの、あるいは詩と拮抗できる唯一の道なのである、ということを厳しく、ナイーブで、優しい杉本さんは、酒とカメラを手にしながら本能的に察知するのである。

 

漫画家 しりあがり寿

ボクは昔からずっと不思議だったんだよね。この世界の言葉はどこまでが普通の言葉で、どこからが詩なのだろう?もうどこが違うかさっぱりわからない。普通の言葉と詩との境って何?で、この映画だ。

この映画は普通の人たちが話したり詩を読んだりするそれだけの映画で、震災で被災した人や、農業や漁業でがんばってる人や、あるいはイタコの人や、なんというかその土地その土地で格闘するように生きてる人たちがいろいろなことを言葉にする。どうしてこの仕事についたか、最近どうかとか。かなしいこともあれば、腹が立つようなこともある。そして、そんな話の合間に谷川さんの詩を朗読する。

不思議なのはそれをきっかけに?ボクらは彼らの何の変哲もない言葉に耳をそばだてていることに気付く。そう「わたし」「あなた」「ここ」「そしたら」そんな変哲もない言葉が詩のように聞き漏らしてはいけない大切な一言一言に思えてくる。これはいったいどういうことだろう?もしやこれは谷川さんが詩の力で普通の言葉を「詩」にしているんじゃないか?谷川さんは違うっていうかもしれない。だけどいいや、そういうことにしておこう!普通の言葉と詩を分けているのは谷川さんだ。あの妖精の長老のような小柄な詩人が普通の言葉を詩にしているのだ!そんな魔法があってもいいじゃないか。だってきっとビッグバンで光や星々に続いて最後にできたのが詩だもの。だから今詩が空に満ちているんだもの。そしてそれは奇跡だもの。

あの妖精の長老のような小柄な詩人が普通の言葉を詩にしているのだ!そんな魔法があってもいいじゃないか。だってきっとビッグバンで光や星々に続いて最後にできたのが詩だもの。だから今詩が空に満ちているんだもの。そしてそれは奇跡だもの。

 

文芸評論家 齋藤美奈子

幸福な出会いの映画

詩が生まれる瞬間を映像にする。詩の言葉が生きている現場をとらえる。雲をつかむような話である。最初に思いつくのは、詩人の私生活に密着することだろう(土曜の夜のテレビ番組みたいに)。次に思いつくのは、詩に合わせた「それらしい映像」を撮ることかしら(カラオケボックスのビデオみたいに)。杉本信昭監督はどちらの方法も採用しなかった(だってあまりに使い古された手だものね)。

そうして生まれたのが、この作品である。相馬高校の小泉さんと古山さん、八戸のイタコの小笠原さん、西成区で働く坂下さん、小平で農業を営む川里さん一家、諫早湾の漁師である松永さん夫妻。作品に登場するのはみな、現代社会のいわば「周辺」に生きる人々である。おそらく当初、彼らは「え、谷川さんの詩? それと私の間にどんな関係が?」と思ったのではあるまいか。それでも杉本は彼らの生活史を聞き、谷川俊太郎の詩を彼らにひとつずつプレゼントした。

それぞれの場所に生き、それぞれの言葉を持った市井の人々と「言葉で詩を釣り上げるのが私のたつき」と語る詩人とが、ここでは同じ地平に立っている。人の暮らしと詩の言葉との出会いの映画である。幸福な出会いといっていいと思う。

それぞれの場所に生き、それぞれの言葉を持った市井の人々と「言葉で詩を釣り上げるのが私のたつき」と語る詩人とが、ここでは同じ地平に立っている。人の暮らしと詩の言葉との出会いの映画である。幸福な出会いといっていいと思う。

 

作家 高橋源一郎

ある特別なこと

詩が生まれる瞬間を映画にするのだ、という。そんなの無理だと思った。絶対に。絵が生まれる瞬間なら可能かもしれない。白い紙を前にして、沈思黙考、一気に絵筆を走らせる。あるいは、音楽が生まれる瞬間。ピアノの前に座った、ひとりのピアニストが、思うがままに、即興で曲を奏でる。それもまた可能なのかもしれない。

無論、どちらも、絵や音楽の表面を撫でるだけのことなのかもしれないが。だが、哲学者の脳裏に深遠な思考が浮かぶ瞬間や小説家が素晴らしい傑作短編を書き始める瞬間となると、さらに難しい。そんなものが映像に収められるわけがない。そう思った。なぜなら、そこには、ことば、という、きわめて厄介な(けれども、途方もなく魅力的な)ものが存在しているからだ。

この映画の中で、谷川さんがいっているように、ただぼんやりパソコンの前に座っている詩人の姿を撮影することはできるだろう。あるいは、とりあえず、なにかを書いている詩人の姿も撮影することはできるだろう。けれども、それは、決して「詩が生まれる瞬間」ではない。

ことばが生まれる瞬間、ある特別なことが起こる。なにもなかったところに、ことばが生み出される。そして、そのことによって、ある特別がなことが起こる。そして、そのこと自体は、ことばにすることができないのである。

この映画は、その、「ある特別なこと」を撮影しようとした。いや、そもそも、そんなことは不可能だ、というところから出発したのかもしれない。

あの「震災の日」を目の前で迎えた女子高生、家族と離れ日雇い生活をおくる男、何百年も続く農家を継いだ若者、国に裏切られた漁師夫婦、死んだ魂を呼び戻す青森のイタコ、そんな、ほんの少しだけ「日常」から遠い、それ故、誰よりも少し「日常」を知っている人たちの間を、カメラは彷徨う。そして、その人たちに向って、谷川さんの詩のことばが贈られる。その瞬間、「ある特別なこと」が起こり、わたしたちはその目撃者となる。わたしたちが見た、あるいは、見ることになる、「ある特別なこと」とは何なのか。

それは、この映画で確かめてください。

ことばが生まれる瞬間、ある特別なことが起こる。なにもなかったところに、ことばが生み出される。そして、そのことによって、ある特別がなことが起こる。そして、そのこと自体は、ことばにすることができないのである。この映画は、その、「ある特別なこと」を撮影しようとした。いや、そもそも、そんなことは不可能だ、というところから出発したのかもしれない。

 

詩人 谷内修三

詩が生まれる瞬間

相馬の高校生が津波被害にあった自分の家を訪ねる。「最初は風呂があったんだけれど、今はもうなくなった。残っているのはこれだけ」と家の土台の後を示す。また「こっち側が畑、こっちは家」とか「ここに小さいときの机があって、大きくなったらこっち」と、空き地で間取りを説明する。その瞬間、私は「今、詩が生まれている」と感じた。彼女が体で覚えていることが、ことばになって彼女のなかから出てきている。そこにないものに向かって、ことばが生まれている。

あ、こんなことばを聞いたあと、詩を作るのは大変だなあ、と私は谷川俊太郎に同情してしまった。谷川がどんな詩を書いたとしても、私は谷川のことばよりも聞いたばかりの少女の声に感動してしまう。

有機野菜をつくっている農家の男性が野菜を引き抜きながら「親父の仕事は早いが雑なところがある。私の仕事は遅いけれど丁寧だ。だからけんかをする」と笑う。男の人が言いたかったというより、ことばがことばになりたくて彼を突き破って出てくる感じ。諫早湾の漁師が、不漁に苦しむにもかかわらず「季節によって取れる魚が違うから漁はおもしろい」というのも同じだ。ほんとうのことばが男性の肉体のなかから飛び出してくる。

こういうことばに、詩は勝てない。詩はどうしたって、嘘だから。感じていることを格好よくみせるためにととのえなおしたことばだから。どんな形になっているか気にしないで、あふれてしまう日常の声には負ける。

うーん、きっと谷川さんは、そういうことばに負けてしまうことを承知でこの映画にでているんだな。詩はいつでも実際の暮らしに「負ける」ために存在する。暮らしのことばは、詩や文学から、ことばを奪い取って、独自の力で暮らしをととのえる。そのとき暮らしのなかでどこかで読んだ詩がふと鳴り響く。そういう交流を谷川は夢みてこの仕事をしたのか。最後の詩に谷川の祈りが聞こえる。

暮らしのことばは、詩や文学から、ことばを奪い取って、独自の力で暮らしをととのえる。そのとき暮らしのなかでどこかで読んだ詩がふと鳴り響く。そういう交流を谷川は夢みてこの仕事をしたのか。

 

映画監督 森達也

杉本信昭が谷川俊太郎を映画にした。最初にそう聞いたとき、どんな映画になるのか、まったく見当がつかなかった。

詩人を映画の被写体にする。

そう言葉としてまとめることは簡単だけど、実際には相当に難しいはずだ。そもそも詩人にはあまり動きがない。街に出て警察と闘うわけではない。ギャングを追跡するわけでもない。オホーツクの海で怪魚を釣り上げるわけでもないし、アマゾンで密林に暮らす人たちと狩りをするわけでもない。

詩人は何をしているのだろう。おそらくじっと見つめているはずだ。野の花を。自分の指先を。季節の移ろいを。街に生きる人たちを。

でもそれはドキュメンタリー映画になるのだろうか。

ならないわけではない。そんな映画も存在する。でもそんな映画の多くは、見る側に一定の忍耐を強いる。もちろんそんな忍耐がカタルシスに繋がる瞬間はいくらでもある。でも最近は歳のせいか、忍耐が苦手になってきた。できることならパスしたい。映画はたくさんある。しかも気がついたら、ドキュメンタリーは静かなブームのようだ。毎日のように新作が発表されている。特に観なければならない義理はない。

でもなあ、他ならぬ杉本だ。1993年に「蜃気楼劇場」でデビューして、その10年後には傑作「自転車で行こう」を発表して、それから11年後の今年はこの作品を撮り終えた。

ほぼ10年に一作。バカじゃないか。寡作にもほどがある。

でも杉本はペースを崩さない。本当に撮りたいものを撮る。納得ゆくまで撮る。ならば仕方がない。忍耐は覚悟で観てみよう。

そんな思いで観始めた。そして観始めてすぐ、僕は唸る。

・・・そうきたか。

詩人は見つめる。カメラも見つめる。土に生きる親子二代の家族を。震災後の福島で将来を見つめる女子高生を。妻を亡くした釜ヶ崎の労働者を。不条理な行政と闘いながら日々を送る漁師夫婦を。ひっそりと一人で暮らすイタコの女性を。

切ない。いとおしい。一人ひとりが懸命に生きている。悩んでいる。希望を持っている。

印象的なエンディングまではあっというまだった。至福の時間だった。ありがとう。杉本。素晴らしい作品だ。だから最後にお願い。もっと作品を撮ってくれ。

詩人は見つめる。カメラも見つめる。土に生きる親子二代の家族を。震災後の福島で将来を見つめる女子高生を。妻を亡くした釜ヶ崎の労働者を。不条理な行政と闘いながら日々を送る漁師夫婦を。ひっそりと一人で暮らすイタコの女性を。切ない。いとおしい。一人ひとりが懸命に生きている。悩んでいる。希望を持っている。印象的なエンディングまではあっというまだった。至福の時間だった。ありがとう。杉本。素晴らしい作品だ。だから最後にお願い。もっと作品を撮ってくれ。

 

音楽家 谷川賢作

「妖精の長老」(©しりあがり寿)の魔法の鈴の音

よく映画の中での長老は大抵「苦渋の選択」をしたり「代々伝わる知恵」を皆の衆に授けたりする。詩人である「妖精の長老」は一見、映画の中での長老のように「危機にたたされて決断を迫られて、皆を良き方向に導くよう」なことは期待されていないように見えるかもしれないが、実は彼はこの世の中で起きていることをとても心配している。でも心配はしているけれど、心配しすぎないようにして、とりあえず今日という一日を生きることをしっかりやろうとしている。そして余計な「説教」はしないが、ただいつもなにかボソッと気の利いた、人々にとってライナスの安心毛布になれるような温かい一言を呟くことを楽しんでいるかのようだ。

みんないつもいつも彼に見守られて安心していたい願望はあるが、もちろん彼の方からすり寄ってきたりはしない。ただ時々発する不思議な一言で皆を虜にする。それが詩人である「妖精の長老」

私はこの映画の中で、ラスト「妖精の長老」がよく知った北軽井沢の道を向こうからぴょこたん、ぴょこたんと歩いてくるのを見て不覚にも涙がこぼれそうになった。そしてなぜだか ♪これでいいのだ〜とバカボンのパパの歌声も聞こえてきた。

音楽を担当してと言われて、遠慮がちにほんのちょっとだけ音を呟いてみましたが、それは音楽というよりもむしろ「妖精の長老」のポケットに入っている魔法の鈴の音なのかもしれない。そしてその鈴の音にこそ私たちは安らぎを感じる。
♪ これでいいのだ〜

音楽を担当してと言われて、遠慮がちにほんのちょっとだけ音を呟いてみましたが、それは音楽というよりもむしろ「妖精の長老」のポケットに入っている魔法の鈴の音なのかもしれない。